「間」について思うこと

「間」について思うこと

荒れる大相撲春場所の熱戦を、テレビ桟敷で視聴しています。勝負の醍醐味のみではなく、制限時間前の仕切りで時折起こる、沈黙の両者睨みあい。闘志漲る視線の交錯、その〝間〟に、可視化はされない力士間の言葉が、せまる勝負への高揚を観客達に固唾を飲ませ、語らずとも雄弁な瞬間と感じ興味深いのです。

浅薄な知識ですが、日本は〝間〟や〝余白〟を尊重する文化だと聞いたことがあります。江戸時代、土佐派の絵師である土佐光起は、「白紙も模様のうちなれば心にてふさぐべし。」と言っているそうです。つまり、掛軸や屏風にある余白が見手の想像力をかき立てることで、作品の世界に引き込む力を持つと言うのです。そうなると、相撲の睨みあいも、余白の一種かと…

エマさんからアドリブで陥りやすい注意点として、「沈黙を恐れ、苦し紛れの台詞が口を突く。結果、伝えたいことが伝わらない。」とのアドバイスを受けます。

かく言う自分も、沈黙を避け何とか言葉で繋ぐ(誤魔化す?)ことに必死で、冗長に台詞を発していることが多々ありました。

ところが、少しずつ役作りが体をなし始め、加えて演出のサポートも受けてアドリブを重ねるうちに、言葉を削ぎ落とし、沈黙も大事だと感じるシーンに出会っています。

それは、〝国語の授業〟のシーン。劇の演目に自分の人生と被る民話の採用を依頼し、本を渡そうとする私演じる井田と、過去のトラウマから、その受け取りを躊躇するゆうちゃん演じる折口とのやり取り。

宙に浮く本を挟んで二人の思惑は、折口の困惑の目と井田の懇願の目が交錯しせめぎあう数十秒の〝間〟が、シーンの目的を台詞以上に語っていることを体感しました。(素人が偉そうですが…素直にそう思うのです。)

本番に向け、観客の想像力を掻き立てる〝間〟〝余白〟が作れたらと、アドリブを磨いて、〝沈黙が金となり〟その後の井田の告白が、よりインパクトのあるものになれば、良いのですが…

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2025年〝始めの一歩〟

戦後80年、そして昭和100年が明けました。加えて、今年は、60年周期の干支の1つで、〝乙巳(きのとみ)〟にあたるそうで…

◼️努力を重ね、物事を安定させていく
◼️草木がしなやかに伸びる様子や横へと広がっていく…etc.

などと言われていて、正に色々な意味で節目の年であることを感じます。

冬の季語である冬麗(ふゆうらら)そのもののピンと張りつめた空の下、新たな仲間も加わった水曜日・金曜日の両チームは、例年どおり須賀神社への初詣から始動しました。

5月に控える第18回劇場公演の成功を祈願した後、エマさんから新作に関するプロットの説明を受け、次週からは座員一丸となって、まず〝役つくりのための相関図とシーンつくり〟の作業に突入です。

丁々発止の意見交換の一つひとつの積み重ねが、来るべき舞台でどんな台詞や表現に結びつくのか、今からワクワクが止まりません。

本番まで、約4ヶ月。今年もまた、密度の濃い時間が進み始めました。

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